むかいひろきのロシア・ブリヤート共和国情報局

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クリミア・タタール人 ~ロシアとウクライナの間で揺れるクリミアの民族~

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クリミア半島に暮らすクリミア・タタール人の歴史や文化を紹介します!

 

クリミア・タタール人(Крымские татары)

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クリミア・タタール人は、ほとんどをロシアが実効支配しているクリミア半島の民族。

クリミア半島を除くロシアでの総人口は2,449人。(2010年の統計より)ロシアが実効支配しているクリミア自治共和国には232,340人が暮らしています。(2014年の統計より)

他にもウクライナやトルコ、ウズベキスタン、ルーマニアにも多くのクリミア・タタール人が暮らしています。

 

テュルク系の民族で宗教はイスラム教。

タタールという言葉が入りますが、タタール人とは別の民族です。

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赤がクリミア自治共和国。Wikipediaではロシア語版でもウクライナの地図が使用されている。

Автор: TUBS - собственная работа Это векторное изображение было создано с помощью Adobe Illustrator. Этот файл был загружен с помощью программы Commonist. Это векторное изображение содержит элементы, заимствованные из другого изображения: Ukraine location map.svg (от NordNordWest)., CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15951979

クリミア・タタール人の歴史

クリミア半島の南岸部には、11~12世紀のセルジューク朝の時代に、テュルク系の民族が移住し、定着しました。

その後13世紀のモンゴル帝国侵攻以降、クリミア半島にはモンゴル系や他のテュルク系民族が移住するようになり、彼らが徐々に交わりクリミア・タタール人が形成されていきます。

 

モンゴル帝国分裂後に成立したキプチャク・ハン国の崩壊後、1441年にクリミア半島にはクリミア・ハン国が成立しました。

クリミア・ハン国は1475年ごろからオスマン帝国の保護下に入りました。

この過程でクリミア・タタール人は民族として名実ともに成立しました。

 

16世紀ごろにクリミア・ハン国は全盛期を迎え、モスクワ大公国(後のロシア)に何度も侵攻しました。ただ、17世紀に入ると徐々に攻守が逆転していきました。

 

1768年~1774年、ロシアとオスマン帝国は露土戦争で激突。ロシアが勝ち、その講和条約によりクリミア・ハン国をオスマン帝国から独立させます。そしてロシアはクリミア・ハン国への干渉を強めていき、ついに1783年ロシアはクリミア・ハン国を併合しました。

 

ロシアへのクリミア・ハン国併合は、クリミア半島に暮らしていたクリミア・タタール人に大きな影響を与えました。それまでクリミア半島で圧倒的多数派だったクリミア・タタール人は大勢がオスマン帝国に逃亡。クリミア半島にはロシア人やウクライナ人などが多く移住し、クリミア・タタール人は少数派となっていきました。

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1862年に描かれたクリミア・タタール人の絵

19世紀末、クリミア・ハン国の旧貴族階級の家出身のイスマイル・ガスプリンスキーは、クリミア・タタール人に対して教育普及のためのジャディード運動を開始。これによってクリミア・タタール人の多くの知識人が輩出されることになりました。

 

1917年から始まったロシア革命では、クリミア・タタール人知識人たちが主導してクリミア人民共和国を建国。その後ドイツの侵攻・干渉もありクリミア半島情勢は混迷します。

結局1921年に、クリミア自治ソビエト社会主義共和国が成立。ソ連の権力が確立しました。

 

1941年から始まった大祖国戦争(独ソ戦)では、クリミア・タタール人はソ連軍に参加し勇敢に戦うも、クリミア半島はナチス・ドイツに一時占領されてしまします。

それもあってか、1944年5月18日~20日かけてスターリンはクリミア・タタール人の強制移住を敢行。18万7,589人が中央アジアやウラル方面に強制追放となりました。追放されたクリミア・タタール人は、特別命令で除隊となった軍人や兵士を含めると、20万人を超えると考えられています。

追放先でクリミア・タタール人は強制労働に従事することにあり、大勢が飢えと貧困で死亡しました。

 

1967年になってクリミア・タタール人はようやく民族としての権利を回復し、クリミア半島(1954年にソ連内のロシアからウクライナに割譲)への帰還が認められたものの、1980年代後半まではなかなか帰還が進みませんでした。

 

1990年代以降、ようやくクリミア・タタール人の帰還が進み、現在では約23万人がクリミア半島に暮らし、クリミア半島の人口の1パーセントを占めるまでになりました。

 

1991年2月、ウクライナ議会はクリミア共和国の復権についての法律が採択され、1999年にはクリミア・タタール人代表会議がウクライナ大統領の下で行われ、民族の帰還や復権が進められてきました。

 

2014年に発生したクリミア危機では、ロシアが最終的に住民投票の結果を大義名分としてクリミア半島を併合。住民投票でロシアへの統合を認める方にクリミア・タタール人の多数が投票したと(ロシアでは)報道されていますが、真偽はわかりません。半島がロシアに統合された後にウクライナ国籍を選択したクリミア・タタール人も2015年3月14日の時点でわずか約500人とされています。

ただ、これらの動きは欧米からは疑いの目で見られており、クリミア・タタール人への差別や迫害があるという声もあります。

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クリミア・タタール人小話

クリミア・タタール人の料理は、ウクライナ料理、ロシア料理、ギリシャ料理、イタリア料理、そしてテュルク系諸民族の料理など、かつてクリミア半島に関連した様々な民族の料理が混ざり合って成立しています。

南部では野菜や魚料理、果物が好まれる傾向があり、北部では乳製品や肉(羊、七面鳥、馬など)が好まれる傾向があるそうです。

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クリミア・タタール料理の一つ、ラグマン。ウズベク料理でもある。

Автор: Kim Sergey из русский Википедия, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=25366370

また、クリミア・ハン国時代は料理に関して厳格なマナーが存在していたそうです。食べ物を地面に落とすこと、食べ物を批評することは禁止されていました。料理はわずかなものであっても神の恵みと考えられていたからだそうです。

誰かの家に招かれた際に食事を拒否したり、逆に客に食事を出さないことは考えられないことだったそうですね。

現在、この文化がどれだけ残っているかは分かりませんが、食に拘りの強い民族なのかもしれません。

  

以上、クリミア・タタール人の紹介でした。

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