ロシア帝国(前身のロシア・ツァーリ国を含む)とオスマン帝国(トルコ)の間で約350年の間に断続的に12回行われた戦争、「露土戦争」についての解説記事、第4弾です!今回は第11次と第12次の戦争を解説します!
露土戦争について、その1では第一次~第五次までを、その2では第六次と第七次を、その3では第八次と第九次を、そして第十次のクリミア戦争をこれまでに扱いましたが、今回はその続きの記事です。
大学入試や世界史の授業でなどで役立ちそうな情報をなるべく多く扱っていきたいと思います。受験で出るかもしれない部分や重要な箇所は太字にしました。
露土戦争(ロシア・トルコ戦争)(Русско-турецкая война)
露土戦争の概要
露土戦争とは、1568年~1570年の第1次の戦争から、1914年~1918年の第12次の戦争まで、約350年の間に断続的に行われた、ロシア帝国(第4次まではロシア・ツァーリ国)とオスマン帝国(トルコ)間の戦争です。
「ロシア・トルコ戦争」を漢字で略して表記したものが「露土戦争(ろとせんそう)」です。
前半の戦争では双方互角の戦いでしたが、徐々にロシアが優勢となり、後半の戦争はロシアによるトルコいじめの様相を呈していました。
今回は、第十一次と第十二次の露土戦争を見ていきます。
第十一次露土戦争(1877-1878年)ロシアの勝利
第十一次露土戦争は、受験の世界史でも取り上げられることが多い戦争です。世界史では、単に「露土戦争」と記されることが多いですね。
第十一次の戦争のきっかけは、1875年以降にオスマン帝国支配下のバルカン半島で起きたスラヴ系キリスト教徒の農民反乱です。まずは1875年にボスニア・ヘルツェゴヴィナで地主に対する反乱が発生し、ブルガリアなどにも波及しました。
反乱は各地に波及し、オスマン帝国支配下のスラヴ系民族の国、セルビア公国やモンテネグロ公国は、キリスト教徒の反乱を支援をするよう主張し始めます。
これを好機と見たロシアは、「同じスラヴ系民族の、オスマン帝国からの独立を支援する」という大義名分(パン=スラヴ主義)で、南下政策を再開し、バルカン半島に進出しようとしました。
そして、1877年4月、ロシア皇帝アレクサンドル2世はオスマン帝国に宣戦布告。戦端が開かれました。
今回の戦争でオスマン帝国軍は、軍備を増強していたことや、ブルガリアにあるプレヴェン要塞の守備軍を指揮するオスマン・パシャの活躍もあり、これまでと比べるとロシア軍を何度か撃退するなど善戦します。
しかし、プレヴェン要塞は5か月に及ぶ攻囲戦の末に陥落。その後の戦いではオスマン帝国軍は抵抗を見せるものの各地で敗北が続き、1878年1月にはイスタンブールから約237キロしかない主要都市のエディルネが、ロシア軍によって占領されてしまいました。
そしてオスマン帝国は1878年3月、オスマン帝国は講和を要請。そして同じ1878年3月に、イスタンブール近郊で講和会議が開かれ、講和条約としてサン=ステファノ条約がむすばれました。
サン=ステファノ条約の主な内容は以下の通りです。
- 黒海沿岸の地域(ベッサラビアなど)、アルメニア、東部アナトリアの一部(バトゥミなど)のロシアへの割譲
- セルビア公国、モンテネグロ公国、ルーマニア公国の独立
- ブルガリア公国への自治権付与及び領土拡大
- ボスニア・ヘルツェゴヴィナへの自治権付与
- オスマン帝国からロシアへ多額の賠償金
このサン=ステファノ条約で、ロシアはバルカン半島進出への大きな足掛かりを得ることができました。しかし、これは同時にオーストリア=ハンガリー帝国やイギリスとの利害との衝突を意味します。
結局、プロイセン王国のビスマルクの仲介で、列強諸国の利害調整を図るためのベルリン会議が1868年6月に開催され、ロシアの新規獲得領地はベッサラビアのみとなり、ロシアの息のかかったブルガリア公国も、サン=ステファノ条約から3分の1に領土を縮小されることとなりました。
※ただ、オスマン帝国にとっては、領地や自治権を取られた相手が、ロシアからイギリスやオーストリア=ハンガリー帝国に代わっただけの場合がほとんどで、散々な結果に終わりました。
※この第十一次露土戦争では、ロシア軍の行動に対しイギリスが抗議を行うなどオスマン帝国寄りの行動を見せましたが、結局全面的な支援を行うことなく手を引きました。ひどい。
第十二次露土戦争(1914-1918年・第1次世界大戦のカフカース戦線) 引き分け?
最後の露土戦争は、1914年から1918年にあった第1次世界大戦で、同盟国側で参戦したオスマン帝国と、連合国側で参戦したロシア帝国とのカフカースでの戦いを指します。
ただ、この第十二次の露土戦争は、インターネットで調べたところ、露土戦争の1つとして数えられないことも多いです。
オスマン帝国は、19世紀末以降、ドイツ帝国との関係を深めていきました。世界大戦前年の1913年には、ドイツから軍事使節団が派遣され、軍事的関係も深まっていきました。
その後、同盟国の1つであるオーストリア=ハンガリー帝国もオスマン帝国に接近し1914年8月に同盟を締結。ドイツもロシアに取られた旧オスマン帝国領の回復をちらつかせ、1914年8月にオスマン帝国との同盟を締結しました。
第1次世界大戦の勃発後、オスマン帝国は全面参戦するつもりはなかったのですが、ズルズルと戦争に引き込まれ、1914年11月には連合国側のイギリス、フランス、そしてロシア帝国がオスマン帝国に宣戦しました。
1914年末、オスマン帝国はロシア領カフカースを占領するための作戦を展開しますが、全面占領はロシア軍によって阻止されます。
1915年からはロシア軍が反転攻勢に出て、1月の最初の2週間で前年にオスマン帝国軍によって占領された地を回復。その後は一進一退の戦いを続けながら、徐々にオスマン帝国領内深くまで侵入し、カフカース戦線での戦いを優位に進めていきました。
1916年もロシア軍はオスマン帝国に対して有利に戦いを展開し、アルメニアなどを占領します。
しかし、1917年、ロシア帝国本国では2月革命が勃発。ロシア軍兵士の一部が脱走し、ロシア帝国軍の士気が低下します。この好機にオスマン帝国軍は、1915年以降にロシア帝国によって占領された地を徐々に回復していきました。
1917年11月、ロシアではボリシェヴィキが権力を握り、同盟国との無条件での講和を主張。オスマン帝国軍は、カフカース戦線では弱ったロシア軍を相手に1915年以降の失地を回復をしていたものの、他の戦線ではイギリスなどを相手に悲惨な状況が続いており、1917年12月、オスマン帝国とロシア軍は休戦協定を締結しました。
協定により、1918年の初頭にはロシア軍はほぼ完全にカフカース戦線から撤退。この後、オスマン帝国軍はアルメニア義勇軍などとカフカースでは戦うことになりますが、ロシア軍が撤退した後の話なので、今回は割愛します。
そしてこの第十二次の戦争を最後に、露土戦争は終結しました。
おわりに
今回は、第十一次と第十二次の露土戦争の解説でした。そして今回で、この露土戦争の連載は終了です。
オスマン帝国の領域が、第六次の戦争以降は露土戦争のたびに小さくなっていったのがお分かりいただけたかと思います…。
このブログで連載したものでは、第六次、第七次、クリミア戦争(第十次)、そして今回の第十一次の戦争が世界史ではよく扱われます。この記事が勉強のお役に立てば幸いです。お読みくださりありがとうございました。
これまでの露土戦争の記事はこちら