今回は北カフカースのテュルク系民族、「カラチャイ人」の歴史や民族独自の法典を紹介します!
カラチャイ人(Карачаевцы)
カラチャイ人はロシア連邦北カフカース、カラチャイ・チェルケス共和国の基幹民族の1つ。
ロシアでの総人口は218,403人。そのうち約89%の194,324人がカラチャイ・チェルケス共和国に暮らしています。(2010年の統計より)
ロシア以外ではトルコに約21,000人のカラチャイ人が暮らしています。(2019年の統計より)
テュルク系の民族で宗教はイスラム教。
形質的にはモンゴロイド(黄色人種)とコーカソイド(白人)の混血になりますが、写真を見る限りではコーカソイドの血の方が色濃く反映されているようですね。
赤がカラチャイ・チェルケス共和国。黒海に面していそうで面していないですね。
Автор: File:Map of Russia - Karachay-Cherkessia.svg: Stasyan117derivative work: Seryo93 - Этот файл является производной работой от: Map of Russia - Karachay-Cherkessia.svg:, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=63468849
カラチャイ人の歴史
カラチャイ人は、もともとカフカースに暮らしていた民族と、10世紀前後以降からカフカースにやってきたアラン人やブルガール人、キプチャク人が混血して成立した民族だと考えられています。
13世紀にモンゴル帝国がカフカースに侵攻する以前は、アラン人の王国の支配下に入っていました。
モンゴル帝国侵攻時には、中央カフカースの山岳地帯に押しやられ、その後今のカラチャイ・チェルケス共和国のあたりに定着します。
その後、ティムール帝国などの侵略を受け、時にはそれらの支配下に入ることもありましたが、カラチャイ人は王を持ち独自の政治体制を確立していました。
18世紀にイスラム教がカラチャイ人に定着しました。
1817年、ロシアがカフカース征服のために大軍を動員しカフカース戦争が開戦。カラチャイ人は中立を宣言します。
1828年、中立宣言にもかかわらずカラチャイ人の王国にロシアが侵攻。戦闘の末カラチャイ人はロシアに対し恭順を申し出てその支配下に入りました。カラチャイ人は自らその支配下に入ることを申し出たため、独自の政治制度をロシアの支配下でも維持することができました。
ただ1831年、カラチャイ人の一部がロシアに対する独立運動を開始。独立運動は失敗に終わり、オスマン帝国に運動参加者の多くが亡命しました。(現在トルコに多くのカラチャイ人がいるのはそのためです。)
ロシア革命の混乱の後、カラチャイ人の暮らす地はソ連領内に入ります。
1930年にはソ連に対する反乱が発生しますが鎮圧されました。
1941年から始まった大祖国戦争ではカラチャイ人の軍人や兵士が活躍する一方、カラチャイの地は1942年8月~1943年1月までナチス・ドイツに占領されてしまいます。
ナチス・ドイツの占領の結果、ソ連政府はカラチャイ人がナチス・ドイツと協力することを恐れ、中央アジアへの強制移住を決定。結果として多くのカラチャイ人が亡くなったと伝えられています。
1957年、カラチャイ人はようやく名誉を回復され、祖先代々の地へ戻りました。同時に自治権を与えられ、現在までに至ります。
カラチャイ人小話
カラチャイ人は山岳民族であるため、政治的・文化的にもほかのカフカースの民族からやや独立しています。
カラチャイ人には「ヨズデン・アジェット(Ёзден Адет)」と呼ばれる生活における権利や礼儀作法を定めた伝統的な法典があり、男女別に様々なルールが定められているそうです。現代ではその重要性は失われつつあるそうですが…
イスラム教における「コーラン」やキリスト教における「聖書」のように古来から不変のものではなく、時代によって少しずつ変わっていったそうです。
当初は口承で伝えられてきましたが、現代では活字化されたものがインターネットでも見ることができます。(ロシア語とおそらくカラチャイ語表記)
http://www.elbrusoid.org/upload/iblock/c08/OzdenAdet.pdf
こちらのページからはヨズデン・アジェットの解説や内容を見ることができます。(あまりにも長すぎるのでもちろん全部は見ていません。)
以上、カラチャイ人の紹介でした!
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