カフカースの武勇誉れ高い「チェチェン人」の歴史や現状をご紹介します!
ウクライナ情勢で名前が時々出てくるカディロフ首長や、その配下の私兵団カディロフツィも、チェチェン人です。
チェチェン人(Чеченцы)
チェチェン人はカフカースのチェチェン共和国の基幹民族。
ロシアでの総人口は1,431,360人。そのうち84%の1,206,551人がチェチェン共和国に、93,658人がダゲスタン共和国に、ほかのカフカース地域の周辺の共和国にも多くのチェチェン人が暮らしています。
ロシアで6番目に大きな人口を誇る民族です。(ここまで2010年の統計より)
カフカース系の民族で宗教はイスラム教。
後述しますが、チェチェン共和国はソ連崩壊後、2回にわたるロシア政府との紛争で日本でも大きくニュースで取り上げられていました。
チェチェン人の歴史
チェチェン人の古代の歴史はあまりよくわかっていません。
学者によって意見が異なりますが、チェチェン人が民族として成立したのは12~13世紀だろうと言われています。
13世紀、チェチェン人が暮らしていた地はモンゴル帝国の支配下に入ります。特に目立った反乱などの記述は見つかりませんでした。
16世紀ごろから近隣のクムク人などからイスラム教が流入し徐々に浸透。
ただ、当初は伝統宗教や伝統的な生活システムの方が根強く、チェチェン人の中でイスラム教がアラブ諸国のように主要なものになったのは18世紀末以降だと考えられています。
この16世紀ごろにチェチェン人はテレク川流域にも居住領域を広げます。
16世紀後半になるとテレク川の北側からロシア人も姿を現します。ロシア人はテレク川河畔に要塞をつくり(のちのウラジカフカース)、チェチェン人とも外交関係を持ち始めました。
そしてコサックを使い南進を進めるロシアとチェチェン人は徐々に衝突するようになります。チェチェン人がコサックの村を襲撃したり、逆にロシアのコサックがチェチェン人の村を襲撃したり…という事態が起きました。
一方で文化的な交流や交易が行われた平和な時期が続いたこともあったそうです。チェチェン人がコサック式の産業システムを取り入れたり、コサックがチェチェン人の衣服を取り入れたりすることもあったそうです。
しかし18世紀後半になると、ロシアはカフカースへの侵略をさらに本格化。多くの要塞が作られました。1770年には民族的に近い隣のイングーシ人がロシアの支配下に入ることを決めましたが、チェチェン人はロシアに対抗する道を選びました。
1780年代にはロシアに対抗するためのイスラム教の運動がチェチェンで活発化します。ロシアに対するジハード(聖戦)が唱えられるようになります。
1828年までにロシアはカフカースの多くの領域を支配下に入れます。それに抵抗したチェチェン人とダゲスタンの民族は、1829年にイスラム教国家イマーム国を北カフカースに建国。オスマン帝国(トルコ)の支援を受けつつロシアへの抵抗を続けます。
1834年にイマーム国の指導者となったアヴァール人のシャミールはカリスマ性と軍事的才能を発揮。1859年までイマーム国の独立を維持し、ロシアへの抵抗をつづけました。
1859年にチェチェン人が参加したイマーム国は降伏。チェチェン人はロシア帝国の支配下に入ります。
降伏後、ロシアはチェチェン人やイングーシ人、チェルケス人といったカフカースのイスラム教徒の民族が団結して反抗することを防ぐため、分割統治を行いました。
チェチェン人の一部は反抗を続け、オスマン帝国に亡命した人もいました。
1917年にロシア革命がおこると、多少の混乱の末に1920年3月に赤軍がチェチェンの首都の支配権を確立。紆余曲折を経て1936年にチェチェン・イングーシ自治共和国が成立します。
1941年 大祖国戦争開戦。1942年にはナチス・ドイツ軍の一部がカフカースに到達。チェチェン人の軍閥のごく一部がナチス・ドイツに協力してしまいます。
このことも口実となり、1944年2月23日にチェチェン人、イングーシ人全員が「ドイツに協力した罪」で中央アジアに強制移住となりました。ほとんどの人はナチス・ドイツに協力はしていなかったのですが…。
この強制移住の移動の際に、劣悪な移動環境のせいで大勢が命を落としたと言われています。
1957年にチェチェン人とイングーシ人は対ドイツ協力の疑いが破棄されたことにより、故郷への帰還が決定。チェチェン・イングーシ自治共和国も再建されました。
ただ、共和国の土地の一部が返還されなかったり、強制移住の間にロシア人やオセット人が入植していたりしたことで土地をめぐる争いが起こるなど、後の紛争の火種を抱えることとなります。
1991年のソ連崩壊時、チェチェン人とイングーシ人はチェチェン・イケリチア共和国としてソ連からの離脱・独立を宣言。ロシア軍が解決のために共和国へ向かいますが撤退。その後、ロシア本国との対立に消極的だったイングーシ共和国がチェチェン・イケリチア共和国から分離独立しロシアに再加入、1994年2月15日の段階でロシア連邦に加盟していないのはチェチェン共和国だけになりました。
この事態を受けエリツィン大統領は、1994年12月に「憲法秩序の回復」を大義として分離独立を阻止するために軍をチェチェンに派遣。紛争となります。これが「第一次チェチェン紛争」です。
1996年8月31日にハサヴユルト和平合意に双方が調印し停戦。チェチェンの独立は5年間停止され、2001年にその地位を再検討するというものでした。
1999年にチェチェン人の武装勢力が隣のダゲスタンに侵攻します。
1999年9月9日~16日にかけてモスクワやヴォルゴドンスクなどで計5件、犠牲者計約300人の連続爆破事件が発生。ロシア政府はこの一連の爆破事件にチェチェン人の過激派が関与していたと断定し、チェチェンへの侵攻を決定します。
1999年10月1日、当時首相だったプーチンの強硬な姿勢のもと、ロシア軍がチェチェンに対する対テロ戦争を開始。これが「第二次チェチェン紛争」です。
2000年5月に戦闘は終了。チェチェン側はとても多くの死者を出しました。武装勢力に対する拷問や民間人への攻撃などで、ロシアは国際社会の非難を受けました。
第二次チェチェン紛争終結後、9年間は「反テロ治安維持体制」が敷かれました。
2002年~2011年にかけてチェチェン人武装勢力が関連するテロ事件がロシア国内で散発しましたが、ここ最近は安定しているようです。
2022年2月に始まったロシアの特別軍事作戦では、チェチェン共和国のカディロフ首長率いる私兵団「Кадыровцы」(カディロフツィ)がウクライナ領内に侵入。軍事活動を行っているという報道もあります。このカディロフツィは「強い」という風評もありますが、ゲリラ戦の経験は豊富でも、正規軍同士の真正面からの戦闘の経験はそれほどなく、実際に戦力になるかは未知数です。
反対に、ウクライナ側でもチェチェン人が義勇兵として参戦しているという報道もあるため、残念ながらチェチェン人同士の戦闘も発生しているかもしれません。
まずは、この事態が早く平和裏に集結することを願うばかりです。
チェチェン人小話
ロシア政府は紛争後に巨額の復興資金をチェチェンに投入。近年は経済発展も見られ、徐々にチェチェン共和国は平穏になりつつあります。
特に首都のグロズヌイは建設ラッシュが進み、「カフカースのドバイ」といわれるまでになりました。
また、チェチェン人は格闘技が強いことでも有名。柔道の選手はロシア国内でも強豪ぞろいだそうです。レスリングではアダム・サイティエフ、イスラム・アルビエフといった金メダリストも輩出しています。
以上、チェチェン人について歴史を中心に紹介しました。
ロシアとは数百年も難しい関係が続いてきましたが、最近はようやく落ち着いて来たようです。いつか発展を続けるグロズヌイの町にも行ってみたいですね。
では、今回はここまで。
これまで紹介した民族はこちらから!