日本とも関わりの深い極東の少数民族「ニヴフ人」の歴史や文化を紹介します!
ニヴフ人(ギリヤーク人)(Нивхи)
ニヴフ人はロシア極東部の少数民族。日本語では「ニヴフ」や「ギリヤーク人」と呼ばれることもあります。※「ギリヤーク」はロシア人がニヴフ人に最初につけた呼称(Гиляки)に由来します。
ロシアでの総人口は4,466人。そのうち約50%の2,253人がサハリン州に、約46%の2,034人がハバロフスク地方に暮らしています。(2010年の統計より)
日露戦争以降、第二次世界大戦終結までサハリン南部が南樺太という名で日本領だったため、日本に移り住んだニヴフ人もいます。
古シベリア系の民族で、宗教は伝統宗教が中心です。
ニヴフ人(ギリヤーク人)の歴史
1万2千年前、すでにサハリン島があった辺りには人類が暮らしていました。氷河期の終了がきっかけで海水の水位が上昇し、サハリン島が島として孤立します。これがきっかけでニヴフ人は民族として成立していきました。
ニヴフ人に関する最初の言及は7世紀初頭の中国の文献だと言われています。
その後1263年、中国を支配したモンゴル人の元朝がアムール川下流域からサハリン島に居住していた吉列迷(ギレミ)という民族を征服します。この吉列迷はニヴフ人であるとされています。
1264年、吉列迷は元朝に「骨嵬」という民族から侵略を受けているという訴えを起こし、元朝はその訴えによってサハリン島に軍勢を差し向けます。骨嵬はアイヌ人だと考えられ、サハリン島への元軍の侵攻は「北の元寇」などと呼ばれることもあるそうです。
その後時は流れ、17世紀の半ばからロシア人とニヴフ人の接触が始まります。1643年にはヴァシリー・ポヤルコフによってはじめて「ギリヤーク人(Гиляки)」という名で文献に言及されました。
17世紀後半、ニヴフ人が暮らしていた領域は清国の支配下に入ります。
1808年日本の間宮林蔵の探検隊がサハリン島のニヴフ人に接触。翌年には海峡を越え、清国本土領内のアムール川下流域のニヴフ人にも接触しました。
1849年以降はロシアのアムール川下流域への進出、植民を活発化。そして1858年のアイグン条約、1860年の北京条約によって正式にアムール川下流域がロシア領となり、ニヴフ人の一部はロシアの支配下に組み込まれることとなりました。
一方、サハリン島は日本とロシアが領有を争う状態が続き、1867年全島が日露雑居地となりました。
その後、1875年、日本とロシアは千島・樺太交換条約を結び、サハリン島はロシア領となり、ニヴフ人は完全にロシアの支配下に入りました。
その後、日露戦争の結果、1905年に南樺太(サハリン島南半分)が日本領となり、1945年の終戦まで日本の支配下に置かれます。
つまり1905年~1945年にかけてニヴフ人はロシア(ソ連)と日本の2国によって、分裂させられていたことになります。
1945年、日本の降伏後に南樺太はソ連領となり、ニヴフ人はソ連(ロシア)の民族として再出発することになりました。
なお、南樺太にいた一部のニヴフ人が北海道に移住して、日本国籍を取得したケースもあったそうです。
ニヴフ人(ギリヤーク人)小話
ニヴフ人と初めて公式に接触した日本人、間宮林蔵は、ニヴフ人について詳細な記録を残しています。
- 漁業を主な生業とすること
- 漁業には大きなさし網を利用する。
- 犬を上手に使っている。各家庭に3頭~5頭の犬がいる。
- ニヴフの家屋には「穴居」「穴居せざる者の居家」「穴居する者夏居る処の家」「倉庫」の4つがある。(「穴居」は半地下式の竪穴住居、「穴居せざる者の居家」は丸太で作られた住居、「穴居する者夏居る処の家」は木造住居で高床式と地上にそのまま建てるタイプがあった。「倉庫」は高床式倉庫。)
これらについて多くのスケッチとともに記録していました。(間宮林蔵が描いた絵は、著作権の関係で使用できませんでした。)
以上、ニヴフ人の紹介でした!
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