今回はロシアや中央アジアに暮らす朝鮮系民族、高麗人についてご紹介します!
高麗人(Корё-сарам)
高麗人は、歴史的背景によりロシアや旧ソ連諸国に暮らすことになった朝鮮民族の子孫で、ロシア・旧ソ連各国の国籍を持つ朝鮮系の人々。
現在の仕事や留学のためにロシア・旧ソ連諸国に滞在している韓国人、北朝鮮人は含まれません。
ロシアでの総人口は153,156人。州や共和国ごとのデータは見つかりませんでしたが、高麗人が多いのは、極東連邦管区の56,973人、南部連邦管区の40,191人、中央連邦管区の21,779人です。(2010年の統計より)けっこう暮らしているところはバラバラですね。
他の旧ソ連諸国では、多いところではウズベキスタンに約17万6千人、カザフスタンに約10万人、キルギスに約1万9千人が暮らしています。
宗教はロシア正教、仏教、儒教、プロテスタント…と人によって様々だそうです。
高麗人の歴史
高麗人の祖先はもともと朝鮮半島に暮らしていた朝鮮人です。
1860年代の朝鮮では、政治の混乱もあり耕作や生活のための土地が不足し、いつ大規模な飢饉がやってきてもおかしくはない状態でした。そのため、1860年に761家族5310人が宗主国である隣国・清国の沿海州に移住しました。
その後、同じ1860年の北京条約により、沿海州は清国領からロシア領となります。ロシア領となった後も朝鮮人のロシア領沿海州への流入は続きました。その彼らが最初の「高麗人」です。
移住した高麗人たちは、ロシア人と上手く共存していたようです。
そして1864年にロシア帝国政府によって、正式に高麗人の移住が認められました。
その後、朝鮮からロシアへの朝鮮人の移民は、大きく4つの波に分けられます。
まず、第1波(1880年代~90年代)
1880年代になると、日本が朝鮮半島情勢に大きく干渉をはじめ、宗主国である清国も対抗して干渉を始めます。北からはロシアが朝鮮半島進出を狙い、朝鮮半島は不安な情勢になり経済状態が深刻になります。この時期に多くの朝鮮人が経済的理由によってロシアにわたり、高麗人となりました。
第2波(1890年代~1910年代)
1894年の日清戦争で日本が清国に勝利して以降、日本の朝鮮半島への干渉がさらに激化。1910年には日本によって朝鮮(大韓帝国)は併合されてしまいました。この時期には経済的難民の他に政治的難民も加わり、多くの朝鮮人がロシアに移住し、高麗人となりました。この時期にロシアに暮らす高麗人の数は5万人に達しました。
第3波(1910年~1917年)
日本の支配を避けるためにロシアに移住する朝鮮人の数は増え続け、1917年までに在ロシア高麗人の数は10万人を突破しました。
ただ、朝鮮が日本の植民地になったことにより、高麗人たちも日本のスパイだとロシア政府から警戒されるようになってしまいます。
第4波(1920年代~30年くらいまで)
ロシア(ソ連)では1917年以降ロシア革命による混乱や内戦が発生しますが、それでもソ連に移住する朝鮮人は増え続けました。1929年には17万人の高麗人がソ連領内にいたとされています。
その他…サハリンの高麗人
サハリンの高麗人は、これまで紹介した高麗人とやや移住の背景が異なります。サハリンは樺太と呼ばれ日本の降伏までは日本の領地でした。
そのため労働者として連れてこられたり移住したりした人が多かったそうです。
1930年代までに4万5千人の朝鮮人が暮らしていました。
戦後、差別などの問題から自主的にサハリンに残った人たちが、サハリンの高麗人となりました。
その後、1930年代に入ると、日本とソ連の関係が悪化します。ソ連は日本を仮想敵国とみなしていたため、日本領朝鮮から来た高麗人たちの中にスパイが混ざることを恐れました。
そこでソ連政府は高麗人のソ連領中央アジアなど、遠方への強制移住を決定。高麗人はソ連領内に離散させられました。
1937年10月25日までに36,442家族171,781人の高麗人が中央アジアに強制移住させられました。
中央アジアでの生活は当初は困難を極め、1938年までに4万人の高麗人が死んだとするデータもあります。
ただ、同じように中央アジアに追放されたヴォルガ・ドイツ人、チェチェン人などと協力して農地を開拓し、人びとが暮らしていけるような環境を整えていきました。
戦後、スターリンの死後までは沿海州や朝鮮への帰還が禁じられ、スターリンの死後もほかのソ連市民同様移動の自由を実際に得るまでには困難を要しました。実際に沿海州や朝鮮半島に戻った人もほとんどいなかったそうです。
ソ連崩壊後、中央アジアから多くの高麗人がロシアに移住しました。2002年の時点で148,556人の高麗人がロシアに戻り暮らしていたそうです。
なお、中央アジアにも一定数の高麗人が残り、他にウクライナなどにも、現在も高麗人が暮らしています。
高麗人小話
スターリン時代、高麗人は公の場での朝鮮語の使用が禁止され、学校でもロシア語が教えられました。(スターリン死後は朝鮮語の使用は認められましたが、結局衰退していきました。)
このようなこともあり、高麗人は徐々にソ連の文化に適応せざるを得なくなります。服装はソ連のロシア人風のものとなり、習慣も徐々にロシア化していきました。
料理もロシア料理の影響を受け、朝鮮伝統の料理とロシア料理の混ざった独特なものが生まれました。
名前の面でも影響を受けました。自身が会った高麗人の方は、キム・オクサナ…といったように名字は朝鮮系ですが名前はロシア系…という方が多かったです。
そして現在のロシアに暮らす高麗人の若い世代は、ほとんどがロシア語を母語とし、民族としてのアイデンティティも、高麗人としてのアイデンティティより、ロシア人としてのアイデンティティの方が強い人が多いそうです。ただ、これまでの歴史からか、家族の結びつきは強いんだとか。
とにかく、高麗人は激動の時代が生んだ新しい民族といえるでしょう。今後に注目ですね。
以上、高麗人の紹介でした!
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