実はロシアにも暮らす中国の民族「ウイグル人」について、歴史や実情をロシアと絡めてご紹介します!
ウイグル人(Уйгуры)
ウイグル人は中華人民共和国(中国)の新疆ウイグル自治区を中心に暮らす民族。中国での人口は2018年の推計で約12,710,000人です。その多くが新疆ウイグル自治区に暮らしています。他にカザフスタンに約275,000人(2020年推計)、ウズベキスタンに約75,000人(年代不明)など、世界各地に暮らしています。
ロシアでの人口は、2010年の推計で約4,000人。ロシアのどの地域に居住しているかといった情報は見つけることができませんでした。申し訳ありません。
ウイグル系の民族でイスラム教徒。人種的にはモンゴロイド(黄色人種)とコーカソイド(白人)が混血した民族です。
ウイグル人の歴史とロシアとのつながり
最近ニュースでもよく耳にするウイグル人。その歴史とロシアとの接点をまとめてみました。
ウイグル人は古代にはモンゴルで活動が確認される民族です。突厥というテュルク系民族の国に服属していた鉄勒の中の1部族でした。
8世紀に突厥が衰退した後、744年に独立しウイグル帝国(回鶻可汗国)をモンゴル高原一帯に建国しました。
ウイグル帝国の勢いはすさまじく、当時世界の先進国であった中国の唐に対抗する一大勢力となっていました。
755年に唐で発生した「安史の乱」の際に、ウイグル帝国は唐の要請を受け援軍を派遣。ウイグル軍は一時唐に対して離反の姿勢を見せるも、最終的には安史の乱の鎮圧に活躍しました。
その後しばらくは、ウイグル帝国は吐蕃との戦争にも勝利し強勢を誇りました。
しかし840年、ウイグル帝国は内乱とキルギスの侵攻により崩壊。ウイグル人は現在の中国西北部や中央アジアに移動します。移動先で王朝を建てたり、現地の国に服属するなどしました。
13世紀にモンゴル帝国が勃興すると、ウイグル人はモンゴル帝国に服従。モンゴル帝国や中国を支配したモンゴル人の王朝「元」では、ウイグル人は宮廷や軍隊で重用されました。
モンゴル帝国崩壊後は後継のモンゴル系国家に従属します。14世紀頃にイスラム教と定住生活が広まったようです。ウイグル人は17世紀以降はモンゴル系のジュンガル帝国の支配下に入りました。
1759年、当時中国を支配していた清国の乾隆帝がジュンガルを制圧。ウイグル人は清国の支配下の民族となりました。清国の支配下に入ったウイグル人こそが、現在の中国の新疆ウイグル自治区のウイグル人の祖先となります。
ロシアの影がウイグル人にちらつき始めるのは19世紀のこと。
19世紀の前半より、新疆のウイグル人は隣国のコーカンド・ハン国が清国に対して起こした貿易紛争や、コーカンド・ハン国の将校が扇動する反乱に巻き込まれていきました。
一方、ロシアはコーカンド・ハン国やそのさらに東の新疆への進出をうかがい始めます。
1860年代に、新疆でのウイグル人を含めたイスラム教徒の清国への反乱や、反乱に乗じて乗り込んできたコーカンド・ハン国将校による「ヤクブ・ベクの乱」が相次いで発生。さらにはロシア帝国も混乱に乗じて介入をはじめ、新疆のイリ地方を1871年~1879年にかけて占領しました。
これらの反乱は最終的に清国によって1878年に鎮圧されましたが、清国の支配を嫌がったウイグル人の一部が1880年代にロシア帝国領内に移住しました。
彼らが現在の中央アジアやロシアに暮らすウイグル人の祖先だと考えられています。
新疆のウイグル人たちは、その後、清国→中華民国→中華人民共和国と支配者が変わっていきます。
新疆のウイグル人たちは独立運動をおこし、1933年~1934年に第一次東トルキスタン共和国を成立させますが、すぐに崩壊。
1944年~1950年に、今度はソ連の援助を受けて、第二次東トルキスタン共和国を建国し一時的に独立しますが、最終的に中国政府による侵攻によって共和国の実権は握りつぶされ、ソ連政府にも見放されてしまいました。
この独立闘争の過程でも、一部のウイグル人が現在のロシアや中央アジア諸国に移住したそうです。
独立闘争に失敗した結果、ウイグル人の多くは中華人民共和国の1民族として、現在に至ります。
ウイグル人小話
ウイグル人は、中国とヨーロッパを結ぶシルクロードがあったところに居住していたため、かつては交易で栄えていた民族です。また、農業や畜産業も同様に生業としていました。
文化面では、古代より文学が盛んで、イスラム教を受容する以前は仏教関連の書物をウイグル語に翻訳することも積極的に行われていたそうです。
現在、ウイグル人については悲しい話を聞くことが多いですが、民族として権利が認められ、平和に暮らせるようになってほしいです。
以上、ウイグル人の紹介でした。
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