ロシアで4番目の人口を誇るイスラム教徒の民族、バシキール人の歴史や文化を紹介します。
バシキール人(Башкиры)
バシキール人はロシア南西部バシコルトスタン共和国の基幹民族。ロシアではロシア人、タタール人、ウクライナ人に次いで4番目の人口を誇ります。
ロシアでの総人口は1,584,554人。そのうち約74%の1,172,287人がバシコルトスタン共和国、162,513人がチェリャビンスク州、46,696人がオレンブルグ州、46,405人がチュメニ州に、これらの周辺の地域にも多くのバシキール人が暮らしています。(2010年の統計より。)
テュルク系の民族で、宗教はイスラム教です。ただ、戒律はあまり厳しくないようで、写真を見る限りでは女性も髪や肌を出していますね。
人種的にはモンゴロイド(黄色人種)がベースですが、コーカソイド(白人)の要素もかなり強いため、人によっては双方の中間のような見た目をしています。
バシキール人の歴史
バシキール人はウラル地方に古くから暮らす先住民族の一つと考えられています。正確性は不明ですが、紀元前5世紀のヘロドトスの著作に出てくるアルギペ人やブジン人はバシキール人ではないかと考える学者もいます。
7世紀の中国の歴史資料にも「バシキール」という人々が登場します。
840年アラブ人の旅行家のサラム・アル・タルジュマンはバシキール人たちについて、「ウラル山脈両側に国を作り暮らしている」と記述しています。
それより少し後のアラブ側の記録に、バシキール人は「戦闘的で強力な遊牧民」と記録されています。
9世紀ごろにバシキール人の一部はハンガリーに移住。
残ったバシキール人たちはそのままその地で暮らし続けました。
13世紀、バシキール人の国はモンゴル帝国軍の猛攻に遭いますが何度もこれを撃退し、14年間耐え続けました。
結局モンゴル帝国の支配下には入りましたが、その強さからか民族としての立場や自治権などは認められていたそうです。
モンゴル帝国やその後継国の崩壊後に独立性を失い、バシキール人の暮らしていた地域は、カザン・ハン国領、シビル・ハン国領、ノガイ・オルダ領に3分割されました。
16世紀半ば、ロシアのカザン・ハン国征服の際に、ロシア領に組み込まれます。
ロシアの支配下に入ってからは17世紀~19世紀にかけて、ロシアに対して6度もの大きな反乱を起こしますが鎮圧されました。
1917年のロシア革命の際には、近隣のタタール人やチュヴァシ人と協力して独立の動きを見せましたがソ連軍によって鎮圧。その後ソ連の中で自治を獲得し、現在に至ります。
バシキール人小話
現在のバシコルトスタン共和国では伝統文化が重視されており、バシキール人伝統の祝日には、共和国規模でイベントを行っています。
春~夏にかけての時期に多く、5月の「ソバの実収穫祭(カルガトゥイ)」、「マイダン」と呼ばれる五月の祝日、種まき作業の終わりを祝う「鋤の日(サバントゥイ)」などが有名な祝日です。
かつては祝日によって男女や年齢による参加制限がありましたが、現在は撤廃されているそうです。
祝日の祭りではレスリングやレース、歌や踊りなど様々なプログラムが行われるそうです。
以上、バシキール人の紹介でした。いかがでしたか?
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