むかいひろきのロシア・ブリヤート共和国情報局

ロシアやブリヤートに関する情報、駆け出しの日本語教師として感じたことを発信します。ブリヤート共和国で日本語教師として2018年8月~2020年7月まで働いていた日本人大学院生のブログです。

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【ロシアの民族⑪】オセット人(オセチア人)

こんにちは!

今日はカフカースのイラン系民族「オセット人」を紹介します!

 

オセット人(Осетины)

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オセット人はロシア連邦北オセチア共和国の基幹民族。日本語ではオセチア人とも呼ばれます。

ロシアでの総人口は528,515人、そのうち約87%の459,688人が北オセチア共和国に暮らすいています。(2010年の統計より。)

国際的にはグルジア(ジョージア)領の事実上の独立国家・南オセチア共和国にも48,146人が暮らしています。(2015年の統計より。)

 

イラン系の民族で、宗教はロシア正教が多数派。他に伝統宗教やイスラム教を信じている人もいます。

イスラム教は、オセット人の一部を支配したカバルダ人から18世紀~19世紀に伝わり、一部の人々が改宗し現在まで受け継がれています。

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赤が北オセチア共和国。その南に隣接している小さな地域が事実上独立国の南オセチア共和国。

 

 

オセット人の祖先はイラン系のアラン人などの民族だと考えれらており、アラン人は1世紀の文献ですでに登場します。

アラン人は10世紀はじめごろには黒海北岸部に王国を作り、13世紀まで存続しました。

 

13世紀にモンゴル帝国がカフカ―スに侵攻。その際にアラン人の王国は破壊されました。

国を破壊されたアラン人の多くは東欧や中近東方面に逃亡。祖国の地に残ったアラン人は山岳地帯に移動し、そこでモンゴル帝国やその後継国家に対する抵抗を続けます。この山岳地帯に移動したアラン人こそが、後に「オセット人」となります。

 

モンゴル帝国後継国家の滅亡後は、オセット人は現在の南北オセチアの領域にそれぞれゆるやかな部族連合を作りました。北部は後にカバルダ人とイングーシ人の、南部はグルジアの支配下に入ります。※カバルダ人とイングーシ人は後日紹介記事を作る予定です!

1774年、南北オセチアのある領域は南進してきたロシアの支配下になります。ただ、南オセチアはグルジアの影響が強く、直接の支配が及ぶのは1830年のロシアの軍事遠征以降です。

 

ソ連時代に入ると、現在の北オセチアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の一部に、南オセチアはグルジア・ソビエト社会主義共和国の領域内に入ります。

 

ソ連崩壊後、北オセチアはロシア連邦内の共和国として地位を得ます。

しかし南オセチアはグルジア領内に組み込まれたままでした。ソ連時代はグルジア・ソビエト社会主義共和国内の自治州として自治が認められていましたが、グルジア独立後に一方的にグルジア政府は自治州を廃止。その結果1991年にはオセット人たちが自治を求めて起こした紛争が発生しました。2008年にはグルジアが南オセチアに侵攻し、それに反発した南オセチアとその後ろ盾のロシアとの紛争が起きています。

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北オセチアのダルガフス。奥に見える建物群は家ではなくオセット人の伝統的なお墓。最も古いもので1600年代のものが残っているそうです。

写真: Датиева Инна Артуровна / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)

 

オセット人に残る伝統的な風習の一つに、「一家の長老を無条件で敬うこと」があります。父親や特に祖父が家に入ってきた場合、家族全員が敬意のしるしとして立ち上がらなければならず、子供たちは父親や祖父の前に座る権利はありません。

家族の重要な問題は、家族の長(父親か祖父)が最終的な決定権を持つ家族会議で話し合われるそうです。

現在、この風習がどこまで完全に残っているかは不明ですが、どこか東アジア的な雰囲気を持った風習ですね。

 

ちなみに2002年~2008年にかけて「露鵬(ろほう)」という四股名のオセット人力士が大相撲に在籍していました。

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2008年に大麻疑惑で角界を追放されています。(本人は容疑を否認。)

 

以上、オセット人の紹介でした。次回の民族もお楽しみに!

また、これまで紹介した民族はこちらから!

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