カフカースのイラン系民族「オセット人(オセチア人)」の歴史や文化をご紹介します!ジョージア(グルジア)との間に、残念ながら禍根が残る民族です。
オセット人(Осетины)
オセット人はロシア連邦北カフカース、北オセチア共和国の基幹民族。日本語ではオセチア人とも呼ばれています。
ロシアでの総人口は528,515人、そのうち約87%の459,688人が北オセチア共和国に暮らすいています。(2010年の統計より。)
国際的にはグルジア(ジョージア)領の事実上の独立国家・南オセチア共和国にも48,146人が暮らしています。(2015年の統計より。)
イラン系の民族で、宗教はロシア正教が多数派。他に伝統宗教やイスラム教を信じている人もいます。
イスラム教は、オセット人の一部を支配したカバルド人から18世紀~19世紀に伝わり、一部の人々が改宗し現在まで受け継がれています。
オセット人(オセチア人)の歴史
オセット人の祖先はイラン系のアラン人などの民族だと考えれらており、アラン人は1世紀の文献ですでに登場します。
アラン人は10世紀はじめごろには黒海北岸部に王国を作り、13世紀まで存続しました。
13世紀にモンゴル帝国がカフカースに侵攻。その際にアラン人の王国は破壊されました。
国を破壊されたアラン人の多くは東欧や中近東方面に逃亡。祖国の地に残ったアラン人は山岳地帯に移動し、そこでモンゴル帝国やその後継国家に対する抵抗を続けます。この山岳地帯に移動したアラン人こそが、後に「オセット人」となります。
モンゴル帝国後継国家の滅亡後は、オセット人は現在の南北オセチアの領域にそれぞれゆるやかな部族連合を作りました。北部は後にカバルド人とイングーシ人の、南部はグルジアの支配下に入ります。
1774年、南北オセチアのある領域は南進してきたロシアの支配下になります。ただ、南オセチアはグルジアの影響が強く、直接の支配が及ぶのは1830年のロシアの軍事遠征以降です。
ソ連時代に入ると、現在の北オセチアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の一部に、南オセチアはグルジア・ソビエト社会主義共和国の領域内に入ります。
1944年、チェチェン・イングーシ自治共和国のチェチェン人とイングーシ人が中央アジアに強制移住させられてしまいました。この間にオセット人はこの地に入植してしまいます。1957年にチェチェン人とイングーシ人が帰還してからオセット人との土地の問題が勃発しました。ソ連崩壊後の1992年にはオセット人とイングーシ人との土地をめぐる紛争が発生し、双方合わせて583人が死亡する事態となりました。
ソ連崩壊後、北オセチアはロシア連邦内の共和国として地位を得ます。
しかし南オセチアはグルジア領内に組み込まれたままでした。ソ連時代はグルジア・ソビエト社会主義共和国内の自治州として自治が認められていましたが、グルジア独立後に一方的にグルジア政府は自治州を廃止。その結果1991年にはオセット人たちが自治を求めて起こした紛争が発生しました。その紛争の結果、南オセチアは独立状態となります。
その後、2008年に国土の統一を目指すグルジアが南オセチアに侵攻。グルジアに反発する南オセチアと、その南オセチアの後ろ盾のロシアとの間で再び紛争に発展しました。
(ロシアが先に手を出して軍事侵攻したと勘違いする方が多いですが、先に侵攻したのはグルジア(ジョージア)側で、南オセチアの応援に駆け付けたのがロシア軍という形に、この戦争ではなっています。軍事侵攻以前に挑発やゴタゴタはありましたが…。)
オセット人(オセチア人)小話
オセット人に残る伝統的な風習の一つに、「一家の長老を無条件で敬うこと」があります。父親や特に祖父が家に入ってきた場合、家族全員が敬意のしるしとして立ち上がらなければならず、子供たちは父親や祖父の前に座る権利はありません。
家族の重要な問題は、家族の長(父親か祖父)が最終的な決定権を持つ家族会議で話し合われるそうです。
現在、この風習がどこまで完全に残っているかは不明ですが、どこか東アジア的な雰囲気を持った風習ですね。
ちなみに2002年~2008年にかけて「露鵬(ろほう)」という四股名のオセット人力士が大相撲に在籍していました。
以上、オセット人の紹介でした。次回の民族もお楽しみに!
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