こんばんは!むかいです。
本日より、新連載《ロシア史重要用語解説!》を開始いたします。
これまで【ロシアの民族】の記事で、さまざまな民族の歴史についてご紹介してきました。
ただ、紹介の中で、どうしてもロシア史に関連するキーワードを使うことになります。世界史を高校時代に履修された方なら馴染みのある用語でも、世界史の履修経験がない人や苦手な人にとっては初耳の用語が多かったかもしれません。
そこで本日から「ロシア史の重要用語を解説すること」を目的とした連載を始めたいと思います!早稲田や慶應といった世界史の入試で難問を出題する大学の受験対策にもなるかも(?)しれません。
初回は、タタール人やバシキール人など、ウラル地方の民族の紹介で何度も登場した「カザン・ハン国」について解説します!
カザン・ハン国
「カザン・ハン国」の概要
カザン・ハン国は1438年~1552年に、現在のロシア西部タタールスタン共和国のカザンを中心として存在した国家です。1552年にロシアに征服・併合されました。
人口はおよそ45万人ほどだと推定され、タタール人を中心に、マリ人、モルドヴィン人、チュヴァシ人、ウドムルト人、バシキール人が暮らしていた多民族国家でした。
「ハン」の称号を持った支配者が国を支配し、首都がカザンだったことから「カザン・ハン国」と呼ばれています。
カザン・ハン国の成立~滅亡まで
前史
カザン・ハン国の歴史を語るには、時代をカザン・ハン国成立の約200年前にさかのぼる必要があります。
1206年にチンギス・ハンの即位によって成立したモンゴル帝国は、各地に遠征軍を派遣し、東欧~朝鮮までを勢力下に置く大帝国となりました。
その後ほどなくしてモンゴル帝国は分裂しますが、分裂して誕生した国の1つに「キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)」がありました。
キプチャク・ハン国は、ルーシと呼ばれたロシア人の国々を支配下に置いた国です。モンゴル人による(ロシア人目線では)厳しい支配は、「タタールのくびき」と呼ばれロシア史上に残る屈辱となりました。
そのキプチャク・ハン国も14世紀後半には衰退をはじめ、15世紀前半にいくつかの国が分離独立しました。そのうちの1つが「カザン・ハン国」です。
カザン・ハン国の成立・発展
カザン・ハン国は、1438年にウルグ・ムハンマドがカザンを首都とした政権を築き成立します。
カザン・ハン国の建国当時からのライバル的存在だったのは、キプチャク・ハン国の支配下から脱したルーシ諸国の1つで、西隣のモスクワ大公国(1547年10月以降はロシア)でした。
カザン・ハン国はモスクワ大公国に侵攻したり、逆に攻めてきた軍勢を何度も撃退したりなど、強勢を誇りました。(負けるときももちろんありましたが)
カザン・ハン国は戦争の一方で、モスクワ大公国やクリミア・ハン国などと積極的に交易を行い、首都のカザンは経済の中心地として繁栄しました。
モスク(イスラム教の礼拝所)やメドレセ(イスラム教の学校)が立ち並び、イスラム教の中心地としてもカザンは栄えました。
住民は農業、牧畜業、漁業に主に従事し、都市では工業も発展していたそうです。
カザン・ハン国の滅亡
15世紀後半から始まった大航海時代により、大陸の内陸部を通る交易路は徐々に使われなくなり、16世紀以降はカザンの商業・経済の発展に徐々に陰りが見えてきました。
さらにカザン・ハン国の内政にモスクワ大公国とクリミア・ハン国が干渉してくるようになり衰退が加速。
結局、イヴァン4世によって、4回に及ぶ征服戦争の末1552年にロシアに征服されました。
カザン・ハン国滅亡の後、カザンに住んでいたタタール人は追放され、ロシア風の都市が建設されました。
おわりに
今回は、「カザン・ハン国」について重要な点や入試に出るかもしれないところを中心にまとめてみました。
《ロシア史重要用語解説!》の連載は不定期ですが今後も続けていきます。もし取り上げを希望する用語がある場合はご連絡ください。
それでは。