ロシア帝国(前身のロシア・ツァーリ国を含む)とオスマン帝国(トルコ)の間で約350年の間に断続的に12回行われた戦争、「露土戦争」についての解説記事、第4弾です!今回は第十次露土戦争…別名クリミア戦争を解説します。
露土戦争について、その1では第一次~第五次までを、その2では第六次と第七次を、その3では第八次と第九次を扱いましたが、今回はその続きの記事です。
大学入試や世界史の授業でなどで役立ちそうな情報をなるべく多く扱っていきたいと思います。受験で出るかもしれない部分や重要な箇所は太字にしました。
露土戦争(ロシア・トルコ戦争)(Русско-турецкая война)
露土戦争の概要
露土戦争とは、1568年~1570年の第1次の戦争から、1914年~1918年の第12次の戦争まで、約350年の間に断続的に行われた、ロシア帝国(第4次まではロシア・ツァーリ国)とオスマン帝国(トルコ)間の戦争です。
「ロシア・トルコ戦争」を漢字で略して表記したものが「露土戦争(ろとせんそう)」です。
前半の戦争では双方互角の戦いでしたが、徐々にロシアが優勢となり、後半の戦争はロシアによるトルコいじめの様相を呈していました。
今回は第十次の露土戦争、通称クリミア戦争(Крымская война)を見ていきます。
クリミア戦争(1853-1856年)オスマン帝国の勝利
第十次露土戦争は、「クリミア戦争」の名前で知られる戦争です。世界史にも必ず出てくる戦争ですね。
まず、戦争までの流れをおさらいしましょう。
1833年のウンキャル・スケレッシ条約でボスポラス・ダーダネルス両海峡の独占通行権を獲得したロシアでしたが、他の列強諸国との利害がぶつかり、1841年のロンドン海峡条約でウンキャル・スケレッシ条約が破棄され、両海峡の外国艦船の通行が再び禁止されるようになりました。
これにより、ロシアは南下の糸口を1つ失ってしまったことになります。それはロシアにとって非常に痛いことでした。
この戦争の直接のきっかけは、1852年フランスのナポレオン3世が、オスマン帝国が所有する聖地エルサレムの管理権をフランスに譲渡することを認めさせたことです。この行動は、ナポレオン3世が自身の支持基盤であるカトリック教会の歓心を買うためだったと考えられています。
これに驚いたロシアのニコライ1世は、オスマン帝国に対し、キュチュク・カイナルジ条約で定めた正教徒保護権を口実に同盟を申し入れてきました。オスマン帝国の内政にフランスが干渉してくるのは、ロシアの南下政策にとっては厄介なことだからです。
しかし、オスマン帝国はロシアからの要請を拒否。その後の交渉も決裂しました。
怒ったロシアは1853年6月15日、ついに大軍をモルダヴィアとワラキアに投入。オスマン帝国への反乱を扇動しつつ、ロシアとオスマン帝国の間の戦闘が始まりました。
ここで、この戦争に参加した主要国の参戦理由を確認しておきましょう。
- ロシア…オスマン帝国支配下のバルカン半島のスラヴ系民族を独立させ自らの保護下に置き、さらに南方に進出したい。
- オスマン帝国…クリミアとカフカースにおける失地の回復。ロシアが扇動するバルカン半島の民族運動を鎮圧したい。ロシアのこれ以上の南下は困る。
- イギリス・フランス…ロシアが南下を進めると自分たちにとっても大きな脅威となる。これ以上のロシアの南下を何とか止めたい。
- サルデーニャ王国…イタリアを統一するためにイギリスやフランスの支援を得たい。この機会に英仏両国に味方して媚びを売ろう。
この戦争は直接的な開戦理由は正教徒保護権ですが、裏には当時の世界情勢が複雑に絡まっていました。イギリスとフランスは、何としてでもロシアの南下を止めたかったため、オスマン帝国を支援することに決めました。
開戦当初は、直近の露土戦争と同じくロシア軍が各地でオスマン帝国軍に連勝します。
しかし、1853年11月のシノープの海戦でロシア軍が一方的な勝利。このあまりにも一方的な勝利が各国で非難を呼び、イギリスとフランスはこれまでのような間接的な支援ではなく、本格的な参戦を決定しました。
イギリスとフランスが本格的に出兵しオスマン帝国を支援し始めたことで、戦争は膠着状態に。バルト海や北極海、オホーツク海でも局所的な戦闘が発生しました。
1854年9月から英仏軍を主力とする同盟軍がロシアのセヴァストーポリ要塞を攻撃。激闘が続きましたが、1855年8月についに同盟軍の手によって陥落。この同盟軍の勝利がクリミア戦争の終結のきっかけの1つとなりました。
ロシアはカフカース方面では同盟軍に勝利していたものの、中立のはずだったオーストリアがロシア国境に兵を集結させるなどの不穏な動きを見せたため、孤立していきます。
一方のイギリスやフランス、オスマン帝国も戦争継続は困難な状態となり、講和が結ばれることとなりました。
講和会議は1856年2月からパリで始まりました。
締結されたパリ条約(1856年)の主な内容は以下の通りです。
- オスマン帝国の領土の保全(クリミア戦争でロシアが獲得した地の返還)
- 同盟軍が占領したロシアの領土の返還
- ボスポラス・ダーダネルス両海峡の閉鎖と黒海の中立化
- ドナウ川の自由航行と航行国際監視委員会の設置
- ロシアはベッサラビアをモルダヴィアに返還すること
- モルダヴィア、ワラキア、セルビアなどのオスマン帝国領内での自治の承認
この戦争は、双方とも大きな損害を出したものの、オスマン帝国側の同盟軍の勝利で終わりました。
このパリ条約によって、ロシアの南下は一時的にとん挫しました。この敗北によってイギリスやフランスと比べた自国の後進性を痛感したロシアは、農奴解放などの近代化改革を進めていきます。
一方のオスマン帝国も改革を進めていきますが、クリミア戦争をはじめとする戦争での支援取り付けや、西欧諸国の支援を必要とする改革により、多額の借款が必要となりました。経済面で西欧列強の半植民地下に置かれるようになっていきました。
この約20年後、ふたたびロシアは南下政策を推し進め、オスマン帝国と再び激突します。この話は次回詳しく解説します。
本日は以上です。これまでの露土戦争の記事もよかったらご覧ください。
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