ロシア帝国(前身のロシア・ツァーリ国を含む)とオスマン帝国(トルコ)の間で約350年の間に断続的に12回行われた戦争、「露土戦争」について解説します!
その1では第一次~第五次までを、その2では第六次と第七次を扱いましたが、今回はその続きです!
大学入試や世界史の授業でなどで役立ちそうな情報をなるべく多く扱っていきたいと思います。受験で出るかもしれない部分や重要な箇所は太字にしました。
露土戦争(ロシア・トルコ戦争)(Русско-турецкая война)
露土戦争の概要
露土戦争とは、1568年~1570年の第1次の戦争から、1914年~1918年の第12次の戦争まで、約350年の間に断続的に行われた、ロシア帝国(第4次まではロシア・ツァーリ国)とオスマン帝国(トルコ)間の戦争です。
「ロシア・トルコ戦争」を漢字で略して表記したものが「露土戦争(ろとせんそう)」です。
前半の戦争では双方互角の戦いでしたが、徐々にロシアが優勢となり、後半の戦争はロシアによるトルコいじめの様相を呈していました。
今回は第八次と第九次の戦争を見ていきます。
(第一次~第五次まではこちらを、第六次と第七次はこちらをご覧ください。)
第八次露土戦争(1806-1812年)ロシアの勝利
第八次露土戦争は、高校の世界史や大学入試では「第三次露土戦争」として扱われることが多い戦争です。
(ロシアでの歴史の区切りと日本の学校での歴史の区切りはやや異なっています。)
1800年代初頭、オスマン帝国領バルカン半島では反乱が頻発し、その反乱勢力をロシアが裏で支援するという状況が続いていました。
これに反発したオスマン帝国は1806年、親ロシアの姿勢を見せていたワラキアとモルダヴィアの総督を更迭したり、第六次露土戦争の講和条約であるキュチュク・カイナルジ条約の規定を破り、ロシア船のボスポラス・ダーダネルス両海峡の通行を妨害したりしました。
(オスマン帝国がこの強気の行動に出たのは、ナポレオンによるエジプト遠征後、ロシアを警戒するフランスと協定を結んだことも背景にあります。)
1806年11月、両海峡の自由通行権が阻害されたことに怒ったロシアが、ワラキアとモルダヴィアを占領したことで開戦したのが第八次露土戦争です。
ロシアはバルカン半島と黒海での影響力拡大を狙い、オスマン帝国はロシアの影響力を削ぎ、黒海を再び支配することを戦争の目的としていました。
この戦争は2つの時期に分かれています。
第1期(1806年~1807年)
1806年にわずか4000の兵力でワラキアとモルダヴィアを占領したロシア軍は、1807年にはさらに勢力域を拡大。オスマン帝国領内のブカレスト(現ルーマニアの首都)なども占領しました。
オスマン帝国も反撃に出ますが、今回も苦戦を強いられます。陸でも海でも敗北が続きました。
さらにオスマン帝国では改革派と保守派の政争があり、皇帝のセリム3世が廃位させられムスタファ4世が皇帝の座に就くなど、国内のゴタゴタも戦局に悪影響を与えました。
ただ、この戦争は、1807年7月にロシアがフランスとティルジットの和約を結んだことにより、一時的に中断します。ロシアはオスマン帝国との戦争をいったん休戦して、イギリスやスウェーデンとの戦争を始めました。
第2期(1809年~1812年)
しかし休戦中もロシアとオスマン帝国の緊張状態が続いていました。結局、1809年3月12日、宣戦布告書を携えたオスマン帝国の使者がサンクトペテルブルクの宮廷にやってきたことで戦争が再開。
この戦争もロシアが連戦連勝し、オスマン帝国は次々に領地を失っていきました。
しかし1812年、フランスのナポレオンがロシア遠征を画策しているとの報が届き、ロシアはオスマン帝国との戦争どころではなくなります。
結局1812年5月、ブカレスト条約で講和しました。
このブカレスト条約では…
- オスマン帝国からロシアへ、モルダヴィア公国の東半分(ベッサラビア)の割譲
- 両国の国境をドニエストル川からプルート川に変更
- オスマン帝国はセルビアの自治権を認めること
- アハルカラキ、ポティ、アナパは引き続きオスマン帝国の領有を認める
などが決められました。
第九次露土戦争(1828-1829年)ロシアの勝利
第九次露土戦争は、1821年から始まったギリシャ独立戦争(1821-1829年)から派生した戦争です。
ギリシャはオスマン帝国から独立するために1821年に独立戦争を開始。イギリスやフランスがギリシャを支援していました。
ロシアは当初は積極的にギリシャを支援することはありませんでしたが、1827年のナヴァリノの海戦にイギリスやフランスとともに参戦。オスマン帝国艦隊は壊滅しました。
このナヴァリノの海戦でのロシアの参戦にオスマン帝国側は激怒。ボスポラス海峡を封鎖するなど、ロシアに対する敵対姿勢を明確にします。
1828年4月に戦闘が始まり、オスマン帝国軍も所々で善戦するものの、ロシアが各地で勝利を重ねました。
1829年8月にはオスマン帝国第2の都市アドリアノープル(エディルネ)をロシア軍が占領。ロシア軍はオスマン帝国の首都イスタンブールまでわずか68㎞の地点まで迫りました。
ロシア軍に首都に迫られたオスマン帝国は講和の申し入れを決意。
1829年9月、アドリアノープル条約(エディルネ条約)で両国は講和しました。
このアドリアノープル条約では…
- オスマン帝国は、ロシアのグルジア、アルメニアの領有を承認
- オスマン帝国は、ロシアにドナウ川河口部、黒海東岸部を割譲
- オスマン帝国による賠償金の支払い完了まで、ロシアがワラキアとモルダヴィアを占領
- ダーダネルス海峡の自由化
- オスマン帝国は、セルビアとギリシャの自治を承認
…などが取り決められました。
この戦争に関連して、オスマン帝国はさらに困難が待ち受けます。
1831年、ギリシャ独立戦争で活躍したエジプト総督ムハンマド・アリーがオスマン帝国に反旗を翻しシリアの割譲を要求。エジプト=トルコ戦争が勃発します。
イギリスとフランスもエジプトに同調したため、オスマン帝国皇帝マフムト2世はロシアに助けを求めました。
1833年、オスマン帝国とロシアは同盟を締結(ウンキャル・スケレッシ条約)し、その見返りとして、ロシアはボスポラス・ダーダネルス両海峡の独占通行権を獲得しました。
ロシアが黒海を通じて、誰からの妨害を受けることなく南下できるようになってしまったということです。
おわりに
今回は第八次と第九次の露土戦争を解説しました。
この2つの戦争は、ロシアがトルコに圧倒的な力の差を見せつける一方、イギリスやフランスなど他の列強諸国との駆け引きもより活発になってきた戦争です。
オスマン帝国の弱体化は歯止めがかからず、この後オスマン帝国は滅亡への道を突き進むことになります。
続編はこちらです。
第一次~第五次まではこちらを、
第六次~第七次まではこちらをご覧ください。