ロシア帝国(前身のロシア・ツァーリ国を含む)とオスマン帝国(トルコ)の間で約350年の間に断続的に行われた戦争、「露土戦争」についてわかりやすく解説します!
大学入試や世界史の授業でなどで役立ちそうな情報をなるべく多く扱っていきたいと思います。受験で出るかもしれない部分は太字にしました。
露土戦争(ロシア・トルコ戦争)(Русско-турецкая война)
露土戦争の概要
露土戦争とは、1568年~1570年の第1次の戦争から、1914年~1918年の第12次の戦争まで、約350年の間に断続的に行われた、ロシア帝国(第4次まではロシア・ツァーリ国)とオスマン帝国(トルコ)間の戦争です。
「ロシア・トルコ戦争」を漢字で略して表記したものが「露土戦争(ろとせんそう)」です。
前半の戦争では双方互角の戦いでしたが、徐々にロシアが優勢となり、後半の戦争はロシアによるトルコいじめの様相を呈していました。
今回は第五次までの、まだロシアもオスマン帝国も双方互角だったころの戦争を扱います。
(第六次、第七次はこちらをご覧ください。)
第一次露土戦争(1568-1570年)ロシアの勝利
はじめての露土戦争は、かつてのアストラハン・ハン国の首都・アストラハンをめぐって行われた戦争です。
ロシア・ツァーリ国は1552年にカザン・ハン国、1556年にアストラハン・ハン国と征服を続け領土を急拡大し、オスマン帝国にとって大きな脅威となりました。
その脅威を取り除くべく、オスマン帝国軍はアストラハンの奪取を目指し1568年に出陣。1569年にはアストラハンに到達し包囲を開始するも、補給の不足や兵士の内乱などで撤退しました。撤退の折、嵐によって船が沈み、多くの兵が死んだとされています。
1570年に講和条約を締結。ただ、この戦争では当時最盛期を迎えていたオスマン帝国の勢いには、特に影響を与えませんでした。
第二次露土戦争(1676-1681年)引き分け
第二次露土戦争は、オスマン帝国のウクライナへの領土拡張が原因で発生した戦争です。1676年、当時ウクライナの北西部を支配していたポーランドにオスマン帝国が勝利し、ウクライナへの干渉を強めました。
当時ウクライナ南東部を支配していたロシアはこれを脅威ととらえ、ウクライナに軍勢を派遣しオスマン帝国軍と戦うことになります。
結局、この戦争は両軍がいくつかの戦闘で勝利を収めるも膠着状態となり、1681年に講和条約が結ばれ、オスマン帝国とロシアの国境がドニエプル川に確定されました。
第三次露土戦争(1686-1700年)ロシアの勝利
1683年、オスマン帝国軍はオーストリア(ハプスブルク帝国)に侵攻し、首都のウィーンを包囲しました。(第二次ウィーン包囲)
第二次ウィーン包囲をきっかけに、1684年、中央ヨーロッパ諸国が「神聖同盟」と呼ばれる同盟を組み、「イスラム教国のオスマン帝国を、キリスト教徒のみんなでヨーロッパから撃退しようぜ!」といった趣旨の「大トルコ戦争」が始まります。
ポーランドの仲立ちがあり、1686年にロシアもこの神聖同盟に参加しました。
神聖同盟に参加したロシアは、オスマン帝国の属国 クリミア・ハン国の本拠地クリミア半島に1687年と1689年に遠征をしますが2回連続で失敗。
2度の失敗を受けて、ロシアのピョートル1世は狙いを変え、黒海沿岸の要衝アゾフを攻撃します。1695年の遠征では失敗しましたが、1696年の遠征でアゾフを占領することに成功し、1700年のコンスタンティノープル条約でも領有が認められました。
第四次露土戦争(1710-1711年)オスマン帝国の勝利
スウェーデンとロシアが激突した大北方戦争(1700~1721年)と関連して発生した戦争です。
スウェーデン王のカール12世は、ロシアと決戦に入る前、南方のオスマン帝国が背後からロシアを攻撃することを望み、交渉を行っていました。
一方のロシアもオスマン帝国に対して中立を守るように交渉し、1708年にロシアとスウェーデンが激突した後も、しばらくはオスマン帝国は動きませんでした。
ところが、1709年にロシア軍がポルダヴァの戦いでスウェーデン軍に勝利すると、敗走したスウェーデン兵とカール12世がオスマン帝国領内に逃亡。ロシア軍はスウェーデン兵とカール12世の引き渡しを要求し交渉を続けましたが、オスマン帝国は拒否を続けました。これによって1711年にロシアとオスマン帝国の間の戦争が始まりました。
1711年、ロシア軍とオスマン帝国軍はモルダヴィアのプルート川河畔で激突。オスマン帝国軍がロシア軍を撃破しました。ピョートル1世をもう少しで捕虜にできるところまでオスマン帝国軍は攻勢をかけましたが、ロシア軍の反撃や策略もあり、講和条約を結びました。
講和条約の結果、第三次露土戦争でロシアが獲得したアゾフはオスマン帝国に返還されました。
この戦いでもしオスマン帝国軍がピョートル1世を捕えていれば、世界の歴史は変わっていたかもしれませんね。
第五次露土戦争(1735-1739年) 引き分け
第五次露土戦争は、日本では一般的に「オーストリア・ロシア・トルコ戦争」と呼ばれる戦争です。
オスマン帝国属国のクリミア・ハン国が、1735年にウクライナやカフカースに対して襲撃をしたことがきっかけです。
1736年5月にロシア軍はクリミア・ハン国に対して攻撃を開始。ロシア軍は次々に要塞や砦を攻略し、6月17日にはクリミア・ハン国首都のバフチサライを占領。また、ロシア軍の別動隊はアゾフを奪還しました。クリミア・ハン国軍は1737年に反撃を行いますが、撃退されています。
しかし、伝染病が蔓延や食料物資の補給の遅延が発生したため、ロシア軍はウクライナへ撤退しました。
ロシア軍の緒戦での勝利を見て、オスマン帝国の宿敵であったオーストリア(ハプスブルク帝国)もロシア側で参戦しますが、こちらはオスマン帝国軍に連戦連敗。オスマン帝国にベオグラードなどの主要な都市を落とされ、結局、ロシアより先に講和を結びました。
ロシアは戦争を続ける構えでしたが、オーストリアが戦線離脱したり、北からスウェーデンが侵攻してくる可能性があったり、オスマン帝国がそのスウェーデンなどと同盟を締結したりと、圧倒的に不利な状況になったため、講和が結ばれました。
ただ、この講和条約でアゾフは要塞を作らない条件のもと、再びロシアに返還されています。そしてロシアは黒海で艦隊を運用することが講和条約によって不可能になりました。
おわりに
今回は第一次から第五次までの露土戦争について要点を解説しました。
実はここまでの露土戦争は高校の世界史ではほとんど扱われることはなく、入試にも直接的に出てくることはあまりないでしょう。
ただ、神聖同盟や大北方戦争など、ロシアとトルコ以外の国と関連した大切な用語は少し出てきましたね。世界史ではある2つの国の戦争でも、それ以外の国々が大きく絡んでいることが多いです。
ロシアやオスマン帝国の動向とヨーロッパの戦争を合わせて見ることで、より理解が深まると思います。
第六次露土戦争以降は、高校の教科書でも多く登場し、入試にもよく出てくる箇所が頻出します。
第六次以降は続編にて、より丁寧にまとめていくので、是非ご期待ください。
続編の記事はこちらです。