中国史に登場する遊牧民族の末裔? そんなハカス人をご紹介します!
ハカス人(Хакасы)
ハカス人はロシア中南部、ハカス共和国の基幹民族。
ロシアでの総人口は72,959人、そのうちハカス共和国に9割近い63,643人が暮らしています。他にクラスノヤルスク地方の4,102人など。(2010年の統計より)
ハカス人はテュルク系の民族。
そのためモンゴロイド(黄色人種)がベースだが、コーカソイド(白人)の遺伝子も混ざっているため、人によってはアジア系の、人によってはヨーロッパ系とアジア系のハーフのようなの顔立ちをしています。
※「テュルク系の民族」と書きましたが、現在トルコ共和国に暮らすトルコ人はもちろんテュルク系(トルコ系)の民族です。ただトルコ人は中央アジアから現在のアナトリア半島に民族移動する過程で、多くのコーカソイドの民族と混血していったため、ヨーロッパ系の顔立ちをしています。
※自身の元勤務先にもハカス人の学生がいましたが、アジア系の顔にややヨーロッパの要素を混ぜたような濃い顔をしていました。
宗教はシャーマニズムやテングリ教が主でしたが、現在は19世紀に強制的に導入されたロシア正教が主流とのこと。
※テングリ教は匈奴の時代からその存在が確認されるテュルク系、モンゴル系遊牧民の伝統宗教。
「テングリ」という天上界にいる創造神を崇拝します。天は人に定命と霊を与え人びとを加護しますが、時には凶作や洪水などの罰を与え、人びとに反省を促す・・・とされます。
チベット仏教がモンゴルに流入するはるかに前から信仰されていた、とても古い宗教です。
ハカス人の歴史
ハカス人の歴史は古く、もともとは紀元前2世紀の中国の前漢の時代から存在した「堅昆(けんこん)」という遊牧民族の末裔ではないかと言われています。
※ちなみに「堅昆」には「肌は明るく、背が高く赤髪か金髪、青や灰色の目を持つ民族」という記録があります。この時点ではヨーロッパ系の見た目をしていたのかもしれません。
堅昆は古代中国(漢など)やウイグルと戦争を繰り返し、徐々にジュンガルに、さらにそこからアルタイやミヌシンスク盆地(現在のハカス共和国があるあたり)に追いやられていきました。
追いやられた地でもともと住んでいた民族と混血をしながら、現在のハカス共和国とその周辺の地に定着していきます。
その後、ハカス共和国辺りの地に定着した堅昆の人々は、9世紀からキルギス・ハン国(Yenisei Kyrgyz Khaganate - Wikipedia)の支配下に入ります。13世紀にはモンゴル帝国がキルギス・ハン国を征服し、その支配下に入ります。
現在のアジア系の風貌の方が強いハカス人が形成されたのは、モンゴル帝国に征服されたあたりからかもしれません。
モンゴル帝国やその後継国家の支配の後、ハカス人が暮らしていた地域は、16世紀にシベリア進出を目指すロシア軍によって征服されました。現在のトムスクやクラスノヤルスクがある辺りが征服されたのも、このときです。
その後、ハカス人はロシア帝国~ソ連時代を経て、現在に至ります。
ハカス人小話
ハカス人には、伝統文化の一つにチェスのようなボードゲーム、「トビト」があります。
現在はこのような紙やボードの上で行われますが、近代以前は地面にゲームのための図を書いて、コマには家畜の骨などが使われていたそうです。
※ルールも紹介したかったのですが、長く難しかったので割愛します。気になる方はこちらをご覧ください。
以上、ハカス人の紹介でした!
いかがでしたか?次の民族もお楽しみに!
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