駆け出し日本語教師の部屋@ロシア・ブリヤート共和国

ロシアやブリヤートに関する情報、駆け出しの日本語教師として感じたことを発信します。ブリヤート共和国で日本語教師として働く日本人大学院生のブログです。

ウラン・ウデの日本人墓地への行き方

こんにちは。むかいです。

 

今回はウラン・ウデにある現地で亡くなられたシベリア抑留者の方々の墓地への行き方を紹介したいと思います。

また、「シベリア抑留者について」「この記事を書こうと思った理由」については後半で述べさせていただきます。

では、始めます。

 

 

日本人墓地への行き方、場所

日本人墓地はВСГУТУ(東シベリア国立科学技術大学)の敷地内、10号館近くにあります。

 

今回は分かりやすいようにレーニンの頭像があるПлощадь Советов(ソビエト広場)からの行き方を時系列順にご紹介します。

日本人墓地へは公共交通のマルシルートカに乗って行くことになるので、マルシルートカの乗り方についてはこちらもご参照ください。

www.hiroki-ru.work

ちなみにマルシルートカは、こんな感じの車以上バス以下のような感じの乗り物です↙

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帰りに利用した77番マルシルートカ

 

ちょうどレーニンの頭の向かいに、マルシルートカがとまるバス停があります。バス停の名前はПл.Советов(プローシャジ・サベータフ(ソビエト広場))

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いつも大勢の人がマルシルートカを待っているので、すぐにわかると思います。

広場側ではなく、向かい側のバス停を利用してください。

行きは17番、30番、77番、129番のマルシルートカで行くことができます。(30番は写真の看板には書いてありませんが停車します。

 

いずれのマルシルートカも所要30分前後。

ちなみに今回(2020年2月1日)は行き30番のマルシルートカを使いましたが、こんなルートです。

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Аがソビエト広場、Бが目的地の大学

いずれのマルシルートカに乗った場合も、

10-й корпус(ジェシャータイ コルプス(10号館))という名前のバス停で下車します。

 

30番に乗った場合、バス停の周りはこんな感じです。

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バス停から撮った写真。17番、77番、129番を利用した場合は、道路を挟んで向かい側の反対車線で下車することになります。

お墓は↑上の写真のなかの中央の建物左側手前にあります。

 

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バス停。30番はここに到着します。帰りはこちらのバス停を必ず利用します。

 

バス停を降り、建物の方向に進むと門があり、誰でも脇から入れるようになっています。正面の建物の入り口に向かって進んでください。

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この建物の入り口手前から左側を見ると、お墓があります。ピンクの○のところです。

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後は、敷地内の道に沿って行けば、お墓にたどり着けます。

 

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日本人墓地。お花とお茶をお供えしました。

ここにウラン・ウデで亡くなられた抑留者の方々の一部が眠られています。

今日は風が強く、日陰ということもありものすごく寒かったですが(-20度)、脱帽し手袋を外してお祈りしました。

※花はバス停近くの花屋で買いました。

 

場所は住所では Ул.Ключевская 40в ст5 になります。

 

帰りはお墓がある方向と向かい側のバス停から帰ります。先ほどの写真と同じこちらのバス停です。

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帰りは17番、30番、77番、82番、129番が利用できます。すべて写真のバス停から発車します。

 

帰りの方がやや早く、20分~30分前後でバス停Пл.Советов(プローシャジ・サベータフ)に到着します。

 

以上が行き方です。

マルシルートカの乗り方についてはこちらの記事に詳しく書いてありますので、くり返しとなりますが、是非ご参照ください。

www.hiroki-ru.work

 

シベリア抑留者とは

次に、「シベリア抑留者」について簡単に説明したいと思います。

 

1945年8月9日以降、ソ連軍が満州や旧日本領だった朝鮮に攻め込みました。その後激しい戦闘の末に両軍は停戦に合意し、ソ連軍は日本軍の武装解除を行い、一部の民間人を含めていくつかの隊に再編成しました。

 

そしてその各隊はソ連軍から「Домой!(帰国!)」と言われ続けながら、列車や徒歩、船などで移動をしましたが、着いた場所は日本ではなくシベリアやモンゴル、現在の中央アジア諸国にあった強制収容所でした。

 

抑留された人は57万5千人にのぼり、1947年から1956年にかけて約47万3000人が帰国しました。

しかし、抑留者の生活は過酷を極めていました。わずかな食糧と粗末な服しか与えられず、集団でラゲーリという粗末な施設で暮らし、重労働に従事させられました。そのため一説には約34万人の日本人が死亡したともいわれています。

 

シベリア抑留者や大戦期の事情については、新宿にある平和祈念展示資料館で詳しく見ることができます。わたしもウラン・ウデ赴任前に見学しました。

www.heiwakinen.go.jp

 

おわりに・この記事を書こうと思った理由

最後に、この記事を書こうと思った理由を書いて締めくくりたいと思います。

 

正直、このような内容の記事をブログに書いていいのかは迷いました。

このブログ記事を書くことで私のブログをこの記事に限らず多くの人が見るようになった場合、それは亡くなられた方々を利用したということにならないか…と考えたからです。

 

ただ、以下の理由から書くことに決めました。

 

まず、いざシベリア各地の日本人墓地に向かおうにも情報が少なすぎる点。

このお墓の場所を見つけるまでや、先日訪れたチタでも日本人墓地にお墓参りに行きたいと思いインターネット上で情報を集めましたが、ロシア語のものはほとんどなく、日本語のものは「お墓参りに行きました。」「市内にあります。」程度の情報しか書いておらず、全く役に立ちませんでした。

実際にお参りに行こうにも場所が不明ではどうしようもありません。Twitterでも同様の意見をいただいたこともあっため、今回ブログ記事にすることで、次に訪れる誰かの役に立てれば…と考えました。

 

もう1点は、日本でシベリア抑留があまり広く認知されておらず、戦争についても鈍感な人が増えているという点です。

実際私自身も恥ずかしながらウラン・ウデに赴任することになり、自身で調べるまではシベリア抑留についてあまり知りませんでした。周りの人にこの話題を振っても、ロシアや軍事に関係のある人以外は、そもそも抑留があったこと自体を知らない場合も多々ありました。

また、某党の国会議員のようにこのように日本人にとって悲惨な出来事があったロシアの地で「戦争で(島を)取り返す」と発言した議員もいます。おそらくシベリアでの悲劇を知っていればそのような発言はできないだろうと思います。

自身は現在はロシアで日本語教師として働いていますが、これからも日本語教育に関わらず、少しでも日本とロシアの関係をよくするために働くことができればと考えています。相互を理解するためには、間にある負の歴史も目を背けず向き合うことが絶対に必要です。

しかし実際には、この抑留について風化されつつある印象を受けます。同じ過ちを繰り返さないためにも、負の歴史を語り継ぐ必要があると思います。お墓にお参りして亡くなられた方々に思いをはせるだけでも、十分に意味のあることだと思います。

そしてこのブログを読んでくださった方が、シベリア抑留について改めて考えてくださることが、良い両国の未来につながると考えています。

この記事が少しでも抑留や戦争について考えるきっかけになればと考えました。

 

 

最後は言葉がうまくまとまった気がしませんが…💦、以上がこのブログを書いた理由です。

市内にはこのほかにも日本人墓地があるそうなのですが、場所がはっきり判明しなかったり、遠すぎたりしてまだ行けていません。もし今後何か明らかになることがあれば、このブログでも紹介したいと思います。

 

今後は通常通り、ロシア情報や日本語教育の情報をお届けします。

それでは。